いろいろなことが起こると一つ一つに対しては不感症というかあまり感じることがなくなる。

 

京王線の爆発と刃傷沙汰は単体で見ればそれなりに大きな事件だと思うが九州新幹線で爆破未遂、JR福島駅前で刃傷沙汰と続き、鉄道に安全をという機運が盛り上がるかというと所管官庁以外は全く盛り上がっていない。同時並行的にワクチン3回目接種の問題や小池都知事不在問題、給付金問題、小室問題、コロナ沈静化などもあり焦点がボケている感じだ。

 

世間の空気の変化も感じられる。もう何が起きても驚かないという人が増えているのではないかと思う。事件は起きているのだが、その刺さり方が小さくなっている。

 

多少のデジャブ感があるのは、自分も1年前にバイデンジャンプを見て驚いたがその後のコロナやワクチンでもう何を見ても驚かなくなった。ああ、またやってらあという感じになってくる。

 

これって教育されている感じかな。だんだんこうやって社会が不感症になっていって、もう大丈夫となったらすごい驚くような情報が開示されるとか。宇宙人の話?

 

人間の精神的成長というのは要するに慣れの話かとも思う。小学生の頃は嘘をついてはいけませんと教育されるが中学生にもなればそんなこと誰も守っていないと知り、社会に出れば嘘つかなければ生きていけないと認識する。むしろ指導者と言われる人々、政治家などは嘘しか言わない。そういう学習過程があると思う。いい例では無いけれど。

 

スレてくるわけだ。

 

手品も最初は驚くが仕掛けを知って仕舞えばただの作業にしか見えなくなる。

 

世の中の仕掛けはずいぶんわかってきた。そういう人が増えているから、京王線の事件も小室問題も、なんか騙しきれなくなって幕引きに苦労しているような感も出てきているのだ。

 

困るのは建前で成立している集団。自分の勤め先でも周回するのにワクチン検査パッケージを利用するかしないかなどまだ議論している。もちろん使用する方向で、議論の対象は手続論だ。街を歩けばマスクがまだ多い。外せないのは周囲の目のせいだろうな。全員がそうだったりすると笑える。でも自分がいの一番にマスクを外すには至らない。そんな状況か。