20240126 スピリチュアルの意味

前にも触れた副島隆彦氏の初のスピ系の著作という「自分だけを信じて生きる」がKindleで配信されてきたので早速読了。短い本でした。1時間くらいで読める。

 

要点を一言でいえば「内なる自分との対話を重ねよ」になるかな。

 

19世紀米国の思想家・演説家エマーソンを引き合いに出して、スピリチュアルの源流は彼にある。それは宗教ではなく自己との対話だ。突き詰めれば宗教も案内人(僧侶、牧師等々)も要らない。プロテスタンティズムの最も進んだ姿だと説明する。宗教に行ってはいけないというのは、それは自己との対話ではなくなるから。誰か、権威のある人、組織、考え方に帰依するのはスピリチュアルではない、と彼は書きます。ここは新鮮だなと思いました。

 

最近、仕事するときには自分一人で決めるな、自分の考え方に固執するな。独りよがりは良くない。自分には決して思い付かないこと、気づかないことがあり、それは他人に聞けば簡単に鑑賞する。必ず他の人と相談して、知恵を出し合って良い仕事をしなさい、というのが常套句になっているところが多いと思います。これはこれで一理ある。

 

しかし、真剣に生きるぞとなると、誰かがこう言ったからそれを信じて私は行動します、ということにはならないだろう。私の理解では、今回読んだ本は、そんなことを言っているような。

 

私自身も、意識するしないに関わらず、常に内なる自分との対話をおこなっている自分に気づくことがあります。内なる自分とはいうものの、それが「自分」なのかは謎だぞ、とも感じています。対話というからには、2者(あるいはそれ以上)いるという設定なわけで、語りかけている自分、それを聞いてくれ、考えて答えてくれる自分、その答えを聞いて再び考えを巡らせる自分、みたいなのがごちゃごちゃ存在する世界が「意識」と言われる空間の中にある。

 

「考えるのをやめろ」と「自分」が命令しても、相手の「自分」は言う事など聞かないでどんどんあらぬ妄想を繰り出してくる。俺は大丈夫だ、と強がってもどこか別のところにいる「自分」が不安で不安で仕方のない状態を作り出してくる。だから「自分」はとても広く、奥深く、ひょっとしたら外部とも繋がっている存在なのだという仮説もありうると思うわけです。

 

そういう複雑で面倒臭い設定ではあるものの、肉体を持ち考えを巡らせる自分というものは自覚できるわけで、その自分A(としましょう)が自分B、C、Dその他と徹底的に対話して、あるところに到達したならブレるな、他人がどう言おうとお前の人生だ、そういうメッセージが込められた書籍でした。ある意味、副島さんらしい論旨です。

 

一生懸命勉強していい大学を出て大企業に入って不幸になる人が多い。中高の教室で勉強ができなくて隅っこで楽しく恋占いなんかやっていた女性陣が今よほど元気だ。こういう人たちがスピリチュアルに行き、幸せそうに語るわけだが、それは悪くないけど宗教めいたものならばやめておけ。外の人に操作される人生になる。そんな注意事項も面白い。

 

またこの本では、色々あるけど生きるしかないんだから「犀の角のように歩め」という原始仏教典の言葉は重たいぞとも書いている。犀の角。なるほどね。これも「らしい」。