20240115 スピリチュアルの件

副島隆彦さんが、以前から公言していたスピリチュアルの著書をとうとう出しますと書いていて、Amazonでは予約注文を受け付けています。前書きの部分は副島さんのサイトで読めるようになっていて、これがなかなか興味深い。彼がスピリチュアルに目覚めた?のは最近のことで、ある日、導かれるように近所の洋館に彷徨いこみ、そこで目にした女神の石像に触れて自分の存在する意味がわかったというのです。信じないならばそれでいい、と書いています。

 

この文章を読んで、ああ、自分にもあったぞと思い出しました。もうかなり前のことで、場所は外国。さまざまな手落ちや不運が重なって苦しい状況でした。その時、まあ人生で最初だと思うのですが、何とかしてくれ!と私は祈ったんですね。誰に祈ったんだろう?よくわかりませんが、それなりに必死でした。と、しばらくして連絡があり、一番大きかった問題はあっさり解決したんですよ。

 

こんな話をすると、そんな馬鹿な、考えすぎだよ、単なる偶然さ、と言ってくる人がいるだろうことはわかります。だから、私も及ばずながら副島さんに倣って「信じないならそれでいい」と思うわけですが。

 

その時、ちっぽけで何の役にも立たなさそうな自分であっても、なんか、見てくれているというか、支えてくれるというか、ぎりぎりのところで何とか面倒見てくれるというか、そういう存在がいるのかもしれない、いや、多分いるぞこれは、と考えるようになったわけです。

 

幸か不幸か、それ以来、厳しく追い詰められることなく生きてこれたので、激しく祈るということはしないで済んでますけど。ただ、前にも書いたけど、ああこれは亡くなった祖母が気を利かせてくれてるな、とか、感じることはある。というか、そういう方向で考える癖が少し身に付いてしまったというか。

 

で、その激しく祈った時の記憶を辿ると、よくわからないんですよね。場所すら曖昧。ただ、光が思い出される。明確な画像ではありません。自分がいるのかいないのかすらわからないような空間の中に、ただただ光が差し込んでいる。おそらくは天井の高い部屋なんだろうと思うけど、そこに窓なのか単なる隙間なのか、そこを通して光が差し込んでくる。そういうイメージが湧いてくるだけなんですね。

 

寝てたのかな。あれは夢だったのか。

 

世の中には、UFO見たとかあの世に行ってきたとかいろんな経験を持つ人たちが多くいるらしいから、それに比べれば何のことはない単なる幻想を見ただけのことかもしれませんが、精神的な影響はかなりありました。その経験によれば、追い詰められて必死で祈ると何かが起きることがある。

 

副島さんの本のタイトルは「自分だけを信じて生きる」というものだから、おそらくは私の経験とは違った内容が展開されているとは思いますが、それでも思うのは「自分」というのはこの肉体を纏った物的存在としての自分だけではないぞ、ということ。「自分」の範囲は脳みそで考えつく範囲をかなり超えてる部分があるぞ、とも思います。正直、自分とは何か、それは考えるほどにわからなくなる。宇宙も自分とひとつながりなんだ、という人すらいますから。

 

ぎりぎりまで追い詰められて祈る、ということで言えば、今の日本人はその状況にもってかれていそうな感じもありますね。堪忍袋の尾が切れるまではやりたい放題やってやる、という勢力がいるからね。これから先も、「その時」が来るまで、かなり詰められる可能性あるかもですね。それこそ「自分を信じて」頑張らないとですね。