20240201 自帰依法帰依

私事ですが以前、少林寺拳法を習っていたことがあります。この武道は面白くて組織としては宗教法人。仏教系と言って良いと思います。突き蹴りはやるけど、目的は人づくりだとか言っていて、道院長(地域にある道場の主宰者)はしょっちゅう、袈裟を着て有難いお話を毎回することになっている。私が通った道院の道院長先生は、ネタ探しに?色々勉強して毎回面白いお話しをしてくれました。その中で特に印象に残っているのがブッダが死の間際に弟子に伝えたと言われている「自帰依法帰依(または自灯明法灯明)」の一節です。

 

直訳すれば、自分を灯火としなさい、法を灯火としなさい。そういうことになりますね。

 

ただ言葉だけ覚えていたこの一節に、最近、俄に意味が見て取れるようになった感じがします。

 

自分に帰依せよ、自分を灯火とせよ。これは、副島隆彦さんの「自分だけを信じて生きる」に通じるものがあって、英語ではエマーソンの言う"self-reliance"つまり他人に精神的思想的に支配されることなく、自分でよく考えて、到達した結論は自分のものだから、それを信じて行動しなさい、というような感じかな。副島さんは霊魂はあるけど、それは自分に何か指示を出すような存在ではなくて、結局は自分の能見をそつかって考え抜くほかない、それが霊魂ではないかと言っています。異論はあるでしょう。私も若干それは違うと思うけど、大筋は同意です。

 

難しいのは法に帰依せよ、法を灯火とせよ、というときの法とは何かですね。文脈と背景から言って、これがいわゆる法律を指したものではないことは明らかですが、では何だろうと。漠然と考えていたのは、物理法則とか、化学式とか、サイエンティフィックな法(原理)というものはあるし、それにヒトは逆らえない。それはある。また意地悪すれば恨まれる、みたいな人間社会の法則的なものも確かにある。これも自分ではどうしようもないところがあるから従うしかない。スピリチュアル的には因果応報とか輪廻とか言われるものもありますね。悪いことをすればいずれ生きている間か死んだ後かわかりませんがブーメランがあると。これは信じる人も信じない人もいるでしょう。数日前までの私の感覚は、そんなもんでした。

 

フト、ああ、法というのは人間中心ではない話だぞという考えが降りてきた。これは造物主の領域だから、人間中心で考えたら誤る。輪廻はあるでしょう。でも他にも見落としていたものがある。お釈迦様は言い伝えによれば「あらゆる生き物に対して暴力を加えることなく、あらゆる生き物のいずれそも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。いわんや朋友をや」「交わりをしたならば愛情が生じる。愛情に従ってその苦しみが起こる。愛情から災いの生ずることを観察せよ」と言っているらしい(「スッタニパータ」)。だから「うつろうものに執着すれば苦しみが生じる。されば執着をして去らしめよ」と。

 

三次元世界でも、人間中心視点を捨てれば違った世界像が見えてくる。環境問題や生物資源問題なんかも、本来はそういう議論があっていいはず。造物主視点というと勘違いされそうだけど、言いたいのは、多分そういうところから見ないと、三次元人間世界のいろんな問題は解決の糸口が見出せないんではなかろうか。

 

「自帰依」は何となく見えてきた感じ。「法帰依」の「法」については、難しそうだけど、これを考えていくことはけっこう大事だと思えるから、たまに触れてみたいと思います。それにしてもお釈迦様にとってみれば三次元世界は「うつろうもの」「執着すべきでないもの」だったのですかね。これは考えさせられますね。