20230930 私の感じた霊魂と造物主の世界

中学生の頃に大変影響を受けた恩師がいた。その人は大学の先生になった。それから●十年、私の勤め先に、ある法人から珍しく出向者が来て、懇親会で彼がその恩師の研究室出身であることがわかった。そしてその出向者は出身研究室が懐かしくなり情報を集めたのだろうか、数日後、我が恩師が最近、亡くなったと伝えてきた。私はこれを愚然だとは思わない。恩師も、自分の死を私に伝えたかったのだと直観した。今でもそう信じている。葬儀は終わっていたが、住所を探し当ててご自宅に伺い、お線香を上げることができた。

 

初恋は高校生の時だった。生涯、忘れ得ぬ思いを持った。が、結局その人は遠い地方の国立大学に進学し、そこで就職した。私は地元に残った。その後、初恋の人と面影が似る相手と所帯を持った。配偶者は両親にとても愛された人だった。その両親は私たちの結婚後ほどなく亡くなった。そして●十年、初恋の人のクラスで中心的だった人物が急死した。私は、そのクラスにはいなかったが、急死した人物とはクラブ活動が同じだったので通夜、葬儀とも出るつもりにしていた。そして、初恋の人も、きっと飛行機に乗って、葬儀に参列するだろうと考えた。ところが、あろうことが通夜の日、その人が住む地方で災害が起き、空港は全便の離発着を停止した。結局、その人が葬儀に来ることはなかった。私はこれも偶然とは思っていない。私の邪心が配偶者の両親の霊魂に見透かされたのだ、と直観したし、今でもそう信じている。

 

ほかにもある。実はある職業につきたかったのだが、ありとあらゆる妨害事象が起きて諦めた。その職業は、いま斜陽だ。これも、おそらくは先祖の霊魂が「そんな方向に行くな!」と手を尽くしていたのだろうと思う。逆に、神頼みを熱心にやって実現したこともある。

 

以上は、霊魂の世界である。亡くなった人も、なんだか知らないけれど近くにいて、それなりに影響力を行使してくるし、助けてくれることもある、という感じがしている。メカニズムがどうなっているのかは、自分が死んだらわかるだろう。

 

造物主の世界はレベルが全然違うと思う。この世をゼロから創造して運営する営みなのだから、霊魂同士の交流めいたやりとりの世界とは、スケールも何もかもが違う。人間などがいくら頭を使って考えたって、到底想像しきれない広大で巧妙で複雑なものがそこにはあるのだろうと思う。

 

霊魂との交流は、ご先祖様やお世話になった人を敬い、その人たちを裏切らないように気を付けて生きていくことで十分かなと私は思っている。だって、それ以上のことはできないでしょ。ものすごいピンチの時に助けを請うことはありかもしれない。でも普段から神頼みで生きるというのも変な感じだし、それがうまくいかないことは経験的に知っている。

 

造物主との関係はどう捉えたら良いのだろうか。意思疎通ができるような気もしないのである。先方も、一人一人の面倒を個別に見る気はなさそうだ。それは今回のワクチンでもわかる。我々にできることは、造物主の意を想像しながら行動することだけだろう。世の中には法則がある。それは数式で表される場合もあるし、経験則として身につけていく部分もある。例えばなぜか重力というものがある。これには逆らえない。誠意を欠いた態度でいると人が来なくなる。これも現実としてある。そういうものは天意というか、法則なのだから、法則に従って生きること。それしかできないのが人間ではなかろうか。

 

そういえば、自灯明 法灯明 とお釈迦様は言っていたらしい。