20231119 教育と調教はどう違うのか

そりゃ違うでしょ。教育は人間に対して行うもの、調教は動物に対して行うもの。そう、対象者は明らかに違うけれども、内容はどうですか。

 

犬の調教について調べると(私はペットを飼ったことがない)、飼い犬がよくない行動をとった時にはしっかり叱りましょう、あるいはあえて無視することでそれがよくない行動であることを伝えましょうなどと書いてあります。人間の親も、人間の教師も、同じことをしてないですか。

 

イルカとかアシカあるいは猿回しの猿に芸を教え込むときは、おそらくですけど、投げられたボールを持ってくると餌をもらえたりするんでしょ。テストでいい点を取ればいい学校に入れたり、作文がよく書けたら表彰されたり、無遅刻無欠席だと記念品がもらえたりするのとどこが違うでしょうか。

 

こんなことをフト考えたのは、しつこいですけど、ワクチンてなんだったんだろうというのが出発点です。いや過去形じゃないかもしれないな。今でもインフルエンザとか帯状疱疹とかに効くという触れ込みで良い子はワクチン打ちましょうみたいな話はあるし。

 

偉い人の言うことを聞きましょう、管理職の言うことを聞きましょうというのがある種の規範として社会にあって、それに適合することが良いことであるというプレッシャーはずーっとありますよね。そこから外れると不良と言われたり、どうしてもそういう場に身を置きたくないからいきませんよという子供たちは不登校として問題にされる。その「問題視される」こと自体が新たに「適合せよ」というプレッシャーを感じさせる要因になるというような。

 

犬に対して:ワンと吠えたら餌をあげるよ。ワン!

 

アシカに対して:逆立ちしたらイワシあげるよ。(逆立ち)

 

馬に対して:速く走ったら干草あげるよ。(競馬)

 

人に対して:ワクチン打ったら病気にならないよ。(接種)

 

こういうふうに考えると、高学歴で社会的地位の高い人たちが競うように接種したことも自分なりによく理解できる気がするんですけど。明治大正時代の新聞には、ユダヤ人に気をつけろみたいな記事が平気で掲載されていたようです。政府批判も激烈だった。これは、江戸時代の空気を引きずっていた人たちが一定数いて、この明治政府はなんか怪しい、と心の底で思っていたからではないかな。この連中の言うことを聞いていたら大変なことになる、そういう層が、どの時代でもある程度存在することが必要な感じがします。社会的にというよりも生物的に、多様性がないと滅んでしまう。よく調教された個体ばかりの種になっては危ないという言い方ができるかもしれません。