20231109 考えることは本質的に反時代的・反社会的な営み

数日前に財務省は優秀と言われるが鉄人28号みたいに脳みそはないのではないかと書いた。いや脳みそがないわけではないのだけれども、財政規律と国民福祉を天秤にかける思考ができない点で、非常に限界のある脳みそではないか、ドグマが与えられないと機能しない脳みそは脳みそとは言えないのではないかという疑念を込めた。

 

また、さらに数日前には、学校で勉強すればするほど、良い子になればなるほど、馬鹿になってしまう可能性について書いた。ここでいう馬鹿とは、自分のことは自分で考える、自分のことは自分で決めるという思考ができなくなってしまった人のことを意味させた。

 

読み返してみて、自分はなんと反社会的なのだろうと思わないでもない。こんなものの考え方をしていたら、友達はできない、会社では疎まれる、異性にも怪しまれる、ってな感じで、まあ良いことはあまりなさそうな。しかし、たまたまですけど、それでいいのだ!というバカボンのパパみたいな文章が見つかったので記録しておきたい。

 

吉岡知哉という法律の学者がいる。この人が、立教大学の総長だった10年ほど前に、学位授与式でスピーチした。こんな内容である。以下は抜粋だが全文のアーカイブも見られる。

 

現実の社会は、歴史や伝統、あるいはそのときどきの必要や利益によって組み立てられています。日常を生きていく時に、日常世界の諸要素や社会の構造について、各自が深く考えることはありません。考えなくても十分に生きていくことができるからです。あるいは、日常性というものをその根拠にまで立ち戻って考えてしまうと、日常が日常ではなくなってしまうからだ、と言った方が良いかもしれません。

しかし、マックス・ウェーバーが指摘したように、社会的な諸制度は次第に硬直化し自己目的化していきます。人間社会が健全に機能し存続するためには、既存の価値や疑われることのない諸前提を根本から考え直し、社会を再度価値づけし直す機会を持つ必要があります。

「考える」という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み事態を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です。(中略)

みなさんがどのような途に進まれるにしても、一つ確実なことがあります。それはみなさんが、「徹底的に考える」という営為において、自分が社会的な「異物」であることを選び取った存在だということです。どうか「徹底的に考える」という営みをこれからも続けてください。そして、同時代との齟齬を大切にしてください。

 

そうか、わたしが自分の考えを反社会的、反時代的と思うのは、わたしがまさに「考えて」いる証拠かもしれないな。考えることで異物になっていく感覚はよくわかる。同時代とは齟齬しかない。ただ、徹底的に考えているかというとそうでもなくて、直観に頼りがちだ。それでは不十分かもしれないな、徹底的に考えなくちゃな、とさえ思わせてくれる文章である。面白い人だな、吉岡さん。

 

徹底的に考えてもどう時代と齟齬がないというような状況はありうるのだろうか。吉岡スピーチに基づけば、マックス・ウェーバーの指摘「諸制度は自己目的化する」のはなぜか、という問いの立て方になる。言われた通りやるのが楽だから、というような話なのか。財務省も、言われた通りやるのが楽だから、そうしているのか?これまた新たな疑問である。その程度なのか、人間は。