20240316 民主主義と権威主義そして共産主義と全体主義

引き続き特段のニュースもない日々。面白い情報はありました。例えば参議院で初めてという政治倫理審査会。世耕さんてほんと、面白いですね。俺はこんなに卑劣な人間なんだぜ、と過剰なくらいわかりやすく表現できている。橋本聖子氏も思う存分無能さと無分別さを開陳していていっそ清々しい。こういう人たちをテレビに出してしまう自民党はすごい。本気で解体に向かっているとしか思えません。そういえば、岸田が首相になってから、統一教会の問題とか裏金とか自民党の実態が本当によくわかるようになりました。すごい総理なのかもしれないなと思わなくもなかったりして。いや全部皮肉です。

 

未だに新聞テレビラジオで中露は権威主義だ、世界の脅威だ、対抗するためには民主主義を守らなければならない、という論旨を見ます。中共はともかくとして、一応選挙で元首を選んでいるロシアも権威主義だと整理する部分がずっと引っかかっていました。選挙が存在しながらも権威主義であるという理屈はどこからくるのか。投票を何らかの形で捻じ曲げているという実態があるというのか。あるとすれば2020年の米大統領選挙は民主主義と言えるのか。あれこそ権威主義と言えるかどうかわかりませんが非民主主義の典型的事例ではないか、とバイデンジャンプをリアルタイムで見た私は思いました。

 

権威主義とは、指導者が強い力で民衆を統率する、俺は偉いんだから従えという理屈が国を貫徹している状況を指す言葉だと私は考えます。それがいけないのだ、政治は民意を反映すべきものなのだというのが民主主義の言い分なのでしょう。ならば、ウクライナの民衆は虐げられているからアメリカが民主主義を教えてやるのだという内政干渉行為は民主主義的国家のやることだったのでしょうか(マイダン革命)。民主主義の盟主はアメリカであるからアメリカに従えという理屈で他国に干渉している時点でそれは権威主義と呼ばれても仕方がないんじゃなかろうか、っていうようなことを言い始めると混乱するでしょうね。わかりにくくなる。わかりにくくなると一般国民は生活に忙しいし興味を失う。それが一つの作戦なのかもしれません。単純な欺瞞なのに、なかなかバレない。

 

同じようなことが共産主義にも言えるような気がします。英語ではコミュニズムで、その元になっているのはコミューンですから、とても小さな規模の人間集団の運営において、みんなで話し合って決めようという精神があったやに思います。イデオロギーとしては私的所有を認めないという点が特徴で、全てのものはみんなのものという建前を押し出してくる。みんなのものってどういう意味ですか、管理は誰がするんですか、と聞けばそれは全体でやりますと。現実的に言えば、それを管理する係を決めて、その係が運営を担いますと。じゃあその係は誰がどうやって決めるんですかと聞くと、共産主義を推し進める集団が責任持ってやりますと。その時点で、管理集団が全体を支配する構造が顕になるわけですよね。具体的にはソビエト共産党とか中国共産党が全権を握る。つまり、全てのものはみんなのものという理屈で押し進めたはずの共産主義は、全てのものは支配者のものという、なんというか、管理者全能主義とでもいうようなものに変質するわけですね。実態的には必ずそうなってきた。共産じゃない。管理者全能主義。

 

全体主義という言葉は最近は流行らないけど、これも一部の人のためでなく全体の最適化を進めるんだというお題目で、じゃあどうやって?と聞くと指導者(群)の一存で全てが決まる管理形態を目指してしまう。ちっとも全体の利益じゃない。全体を従わせるのが全体主義とでもいうような。

 

これ、人数規模が大きくなっていくと必ず登場する結構普遍的な問題だと思うんですよね。私も、勤め先が成長して大きくなっていくに従い、どんどん管理がキツくなっていったことを体感しました。組織とか管理とかがどうしても重くなる。そうすると、組織長とか管理者の一存?の重みも増していくんですね。管理される側の自由度は狭まる一方で、それで持ってイノベーションしろとかいう命令がきたりする。

 

日記形式なので、これ以上の展開は別稿にしますけど、何が言いたいかというと、管理者全能主義はあらゆる意味で良い結果は齎さない。そういう予感を、少し筋道立てて詰めてみることはできるのではないかなと。それは、あのダメな日本政府がマイナンバーだの非常事態条項だのを推し進めることに関して、あるいは世界中で進展する管理社会化に対して、それはダメだよ、うまくいかないよ、と考える一つの縁になるかもしれないぞという感じがするからでもあります。