20240209 一神教と多神教は相容れないのかの考察

アメリカではバイデン氏が公の場のスピーチで現職の大統領はトランプ氏だと(ボケたふりをして?)発言したようです。トランプ氏に関してはコロラド州最高裁が国に叛逆したのだから(2001年1月6日の暴動)大統領選挙に出る資格はないとの判決。イギリスでは国王が癌だと発表。イスラエルハマスの停戦提案を拒絶。日本では文科大臣と官房長官統一教会との関連性疑惑が発生。いずれの国も破綻に向けてそれぞれの道を順調に歩んでいることが窺われます。2月はまた波乱の1ヶ月になるんでしょう。

 

ところで数日前からの持ち越しですがユダヤの10支族の件です。私は一神教であるはずのユダヤ人が多神教というか汎神論の日本に同化したという説が引っかかったままです。田中英道氏の記述によれば「7世紀あたりから(ユダヤ系である)秦氏の活動は急激に形式化していきます。日本化というべきでしょうか。彼らに一神教を捨てさせる力が日本にもあったということです」「彼らはヤハウェの神を捨てました。故国の人に言わせれば、相当な裏切り者とも言えます。しかし、実際に日本に来た人々には、日本は十分すぎるくらいに福音する価値のある土地だということがわかったわけです」「彼らは、基本的には砂漠の民です。自然は過酷ですから。彼らの神は、自然から生まれるものではなく、観念の中から生まれます。それは言葉の神といっても良いでしょう。対して日本は《目の前にある自然がすべて神》となりますから、どうしたって考え方が異なりますよね」(いずれも田中英道・茂木誠「日本とユダヤの古代史&世界史」)

 

言いたいことがわからなくはないけれども、まだモヤっとしたものが残るので、一神教って何なのさと考えてまた検索してみました。橋爪大三郎氏の「死の講義」が引っかかってきました。

 

橋爪氏は、一神教多神教の違いは、神様の数ではないよ、と言う。一神教は数多あるが、共通しているのは「この天地を創造したのは神である」という点であって、これこそが多神教に欠落した(存在しない)視点なのだということです。

 

なるほどね。私はこの感覚はすごくよくわかります。私自身、造物主の存在は否定できないと考えています。となると私も(汎心論の国の日本人ですが)一神教の信者になってしまいます。そうは意識していませんでした。でも橋爪氏の定義によればそうなる。

 

ここは議論と信条の分かれるところでしょう。私が造物主の存在が明らかだと思う理由としては、宇宙にしても素粒子物理学にしても、あるいは生物の肉体構造にしても、「偶然にできた」と考えるにはあまりにも精巧すぎる。こんなものが「偶然に」作られるはずがない、必ずや設計者がいたはずだという直観がまずあります。そんなことはない、何億年もかければゾウリムシは人間になるのだと進化論は言います。でも信じられない。そう思うのは私だけではなくて、例えば進化論は熱力学第二法則エントロピーの増大)に矛盾するではないかと多くの学者が指摘しています。時間が経つほど無秩序性が増すではないか、それを進化論はどう説明するのだ、という話です。

 

無神論側・進化論側からは苦しい反撃(例:散逸適応論)が続いているようですが、まあ常識的に考えて、エントロピーが増大しないように働きかけている生生育育の力がある、その力は天地創造と関係している、そう考えるのが自然だろうと。これも、私はそう思うのであって、異論は当然あるでしょうね。

 

で、その力を信じる考え方を一神教と呼ぶなら、その生生育育の力が顕現したものとして例えば地球の自然があり、その自然の隅々にまでその力というか神意が宿っていると感じるのが多神教であるとして、両者は決して矛盾しないだろうと私は思ったわけです。それは、今の私自身の考え方そのものになります。だから、秦氏が仮にユダヤ人だったとして、ああ、我々が敬っていた神は、こういう(日本の)自然をもお造りになったんだなと感じて、それを崇めるに至った、と読み解くのは、ありうる話ではないでしょうか。これが、私の考えた「日ユ同化論」の解釈になります。