悪いことズルいことをしてもバレなければ大丈夫。バレなければ大丈夫だからバレないようにやった方が得。そういう人がすごく多かったし、幅利かせている人はほとんどそうだった、という現実が目の前で露呈している今日この頃。昔、山本夏彦というエッセイストがいて、ズルいことやっていい目を見ている人を非難するのは偽善である。何故なら、非難している人も、同じようにズルする能力と機会があれば、必ずやっていただろうから。そう書いていた。要するにみんなズルいことしたい。でも結果的にできた人とできなかった人とに分かれる。できなかった人は、自分にもする気があったのだから、うまくいった人のことを非難する資格はない、そんな感じ。
確かに、バレなければズルしていい目が見たいという気持ちが自分の中にないかといえば全くないとはいえないなあ。言えない。しかし、やっぱりバレるのは嫌だ。
で、バレるってどういうことだっけ。
何かバレたとします。親しくしている人たちから、あなたってそういう人だったのね、と軽蔑される。これは嫌だ。これは嫌だなあ。新聞テレビ雑誌に出てしまったとして、満天下の人々にこの人はそういう人なんだと知られてしまう。これも嫌だよね。恥ずかしいことだ。しかし、周囲の生身の人間にさえバレなければ何やってもいいのかという次の問題もある。
ここから先は人生観、世界観によるかも。自分は、お天道様が見ているという感じもあるけど、それよりも亡くなった祖父母らがなんか近くにいるような気もするし、こういう人たちといずれは会うだろうと思うところもあり、とことん追い詰められない限りはあまり変なことはしないぞ、と思っているし、そこをちょっと越えようとすると、おじいちゃんやおばあちゃんがあっちの方からからやんわりとストップをかけてくるなと感じている。
そういう種類の「バレたら恥ずかしい」という感覚もあるんです。あの世を想像して、そこに自分の行動規範を求めるという。他にも色々あるかも。例えば、一神教だと祖先に加えて(かどうか知らないが)神様が見てるんでしょ。全能の神が全て観察していて、亡くなったら裁きがある。そう言われて、バレなきゃいいやという考え方を抑制しているのでしょ?
人の行動規準を常識の範囲内に収めるためには、やはり心の拠り所が必要だなと感じる。心の拠り所とは、このように行動していれば大きな問題はない、社会の中でそれなりにやっていける、という、信頼できるコードを持っているという意味でいい。こういうコードを示すことができるのは、一つには宗教はあるんでしょうね。他にも、歴史の教訓とか、ご先祖様からの遺訓とか、学校で教わった生活態度とか。
いま、バレてしまった人たちは、こういうのが全くなかったか、失ってしまったんだろうな。もう、バレなければ大丈夫という思い込みだけが心の拠り所というか。それでここまでうまくやってきたのだから、それなりの能力はあるのかもしれない。しかし、悪いことズルいことがバレるように世の中がなっていくと、適切なコードに基づいて行動している人たちでなければ何事もうまくいかない、そんなことが起きるのではなかろうか。