人の一生は与えられるものか創るものか

当然、創るものだと思ってきた。

 

目標を立て、努力し、達成しようとする。できない時もある。できる時もある。達成できるかできないかは努力の量と質によるのだ、そんな考え方をしていた時期もある。

 

しかし運命みたいなものの方が大きいことは実は明らかだ。

 

生まれた時代や国、地域、そして両親も親戚関係も自ら選ぶことはできない。兄弟関係とか頭の良し悪しとか容貌についても自ら選ぶことはできない。さらには身体の大きさとか、持病とか、足の速さとか、手先の器用さとか、そんなのも個人差は当然ある。自分でどうにかできるものではない。

 

人との出会いもほぼ全て偶然だ。同じクラスになった人たち、先生、同窓生、勤め先の仲間、お客さん、近所の人、あんな人になりたいなあと思わせる同時代の光り輝く人たち、そんなのが偶然に目の前に出てくる。

 

大きな自然災害に遭うとか、たまたまネット技術が普及する時代に生きたとか、人種差別のある時代かない時代かとか、宝くじに当たったとか、そういうのも自分の意思じゃない。偶然だ。

 

ある時期に考え方を変えてみた。失敗や挫折は山のようにしてきた。しかし今も元気に生きているし、挫折して方向転換したら目の前がひらけてきた経験も一度じゃない。むしろ、昔目指していた職種が今の時代では斜陽になっていたりするのを目の当たりにすると、ああ、自分は誰かに導かれてきたのかなあと思う。以前は長期信用銀行に採用された人は超エリート候補だったが、みんな潰れてしまった。そんなものである。

 

何度も記した通り、この世はシムシティだけれどもキャラクターには個人意志がある。だからある程度は努力したり才覚を発揮することで道を開いていけるのだが、どうも背後霊というかプレイヤーが後ろについているような気がしてならないのだ。少なくとも自分の場合はそうだな。だから自分の一生というのは、背後霊(もっと良い言い方がないかなあ)と自分自身で共同で作っていくのが本当のところかも知れない。でも誰ですかね、自分の後ろにいるのは。