犬猫猿はものを考えるか。多分、考えてはいるのだがその範囲は狭いだろう。「意識」というものをこれらの動物が持っているのかいないのかは大きな論題だ。
仮に自分が犬か猫だったとしたら、雨風や気温の変化は感じる。そしてそれなりに対処する。すぐそばを自転車や自動車が通ったら逃げる。それを避ける。優しそうな人が来たらなつくし、動物嫌いとわかるような人が来たら避ける。そういうような外界に反応した行動はできるけれども、判断と行動の間にはおそらくニューロンの往来だけがある。
人間も昔はそうだったんだ、と言わんばかりなのがジュリアン・ジェインズの「神々の沈黙」だった。3000年前まで人間は右脳で神々と直接交信していた。神々のメッセージは右脳で受信され左脳に送られて自らの行動につなげた。それが、ある時期から受信力が弱まり、自らの行動は自ら考えて行う生物になった。
現代でも神々から直接メッセージを受け取る人々はいる。外形的には統合失調症に見えるそうだ。東北のイタコとか、あるいは歴史上では卑弥呼のような巫女というかそういう存在もいたわけで。出口なおという人もいたな。お筆先とか。こっくりさんなんかも直接交信の位置方法かもしれません。しかしとにかく3000年前に我々の多くは神々との交信能力をほぼ失った。
意識とは何かはとても面白い問題だが、こういった仮説を信じれば答えはほぼ「言語」に行き着くことが決まっているように思う。意識は言語だ。
私の感じるところでは、言語は危険である。現実と違った疑似世界を作り上げる力があるからだ。言語を重点的に取り扱う人々は、悉く神々との交信に基づく世界観を放棄していく。ワクチンで千人亡くなっても「それでもベネフィットがリスクを上回る」と言い続ける有識者がいるが、これは言葉の世界である。何千万人も打ったのだから千人くらいつべこべいうな、というのは言葉の上でしか成り立たない理屈だと感じないといけない。そういう能力が、言葉に依存すればするほど失われていく。
シグナルについて繰り返し書いてきたが、これを感じ取るセンスを有する人が意外に少ないので驚いている。アメリカの一番偉い人は別人でしょ、なりすましでしょ、というと画像を見ることもなく「そんなバカなことがあるはずない」とこちらを蔑むようになる。このような反応は、「意識」「言語」の世界に生きている人の特徴だ。
ジェインズは神々との交信機としての右脳と、指示を受けて活動を設計制御する左脳はあまりに機能が違うので、その並立する状態を「二分心」と呼んだ。
今起きているいろんなことは、シグナルをそれと認めるために人類の二分心を再興する動きではないかと考えている。