20221223 インテリに見えた人が打っている

自分の知る限り、最高学府の先生とか企業の役員とか、知的レベルでは日本の中でも上位層の人々が結構ブースター接種しているのだ。このことには深く考えさせられる。

 

すぐに思い当たる要因としては、この方々が「秀才」であることだ。秀才とは、与えられた枠組みの中で他人よりも素早く、正確に解を出すことに優れた人々のことと言える。受験秀才、という言葉もあった。良かれ悪しかれ、こういう人たちは出世していく。今回は、コロナは危ない、ワクチンは救世主、という枠組みが与えられた。秀才は、ならば早期接種が重要という回答を出し、行動に移す。まあ、そういうことだ。

 

天才と気狂いは紙一重、というけれども天才と秀才との境目は、与えられた枠組みを受け入れるか疑うかにあると自分は考える。秀才は疑わない。天才や気狂いやはぐれ者は受け入れないのである。秀才や秀才予備軍や秀才志向の人々は人口比で9割は居るだろう。その人たちは多数派だから、天才や気狂いやはぐれ者(多数派じゃないからはぐれ者なんだけどね)に冷たい。

 

「ワクチンを打った人たちは考えが足りなかった」という見方が世間に行き渡るのにそんなに時間は要しなそうである。もちろん、接種者からすればとんでもない話なので、あれが毒物だったとするならそれをちゃんと言わなかった政府や医師が悪い、という議論も並行して起きてくるだろう。来年は、そんなことで騒然となりそうだ。

 

でも非接種者が厳然としているのだから、接種者は自らの不明を認めるべき部分もあると思うのだ。ただ、本人がバカだとかそういう話ではない。繰り返すが、秀才タイプが打っているのである。真面目で、枠組みが与えらればその中では誰よりも優秀な成果を残すことができる人たちこそ進んで打っているのだ。

 

思うに、コロナとワクチンは政治だが、究極は教育の問題かな、と。

 

言われたことを早く正確に実行する、という能力「しか」伸ばそうとしないのが近現代の教育の特徴だったと考える。それを信じてそういう能力を磨き上げることに集中してきた人たちが、なぜかしっぺ返しを受けているのだ。つまり、そんな方針で行われた教育は間違っていた、ということではないか。

 

何が必要だったんだろう。

 

与えられた枠組みの中で能力を発揮することは大事だが、その上に枠組み自体を批判的に検討する能力を位置付ける必要があったとは思う。物事の根本を問わない人は、物事の根本を問う人に比較して一段劣るというか、物事の根本を考える人こそ最上位にあるべきという思想が必要だったのではないか。

 

別に、おかしなことを言っているとは思わない。アレキサンダー大王の師はアリストテレスだった。中国には徳治主義という言葉もある。ただ、現実にはどうもそぐわないのである。

 

日本人の全体的な優秀さ(秀才さ)を考えると、秀才の一部に秀才と天才の境界を飛び越える教育をしないといけないんだろうな。おそらくそれが社会に与える好影響が一番大きい。