20221202 話の前提

ついでに記しておくと、江沢民は実は2011年7月に死去の報道があった。産経新聞7月7日朝刊。これはネット上で見ることができる。誤報だとすれば外交問題になるとする指摘があるが、それっきりになった。ここで見方が分かれ、実はもう死んだのだが死んだことにはできない、かと言って誤報ではないから否定もできない、そういう状況だったのではないかと。

 

安倍氏も既に亡くなっていて、今年の夏に暗殺されたのは影武者だとの指摘が後を絶たない。確かに、生前のいくつかの顔写真を比較すると耳たぶなど特徴的なところで異なる人相がいくつかあるように思われる。

 

この種の話はたくさんある。プーチン習近平もバイデンもトランプもマクロンエリザベス女王も日本の高貴な方々も、生きているのか死んでいるのかわからない。本人なのか影武者なのかわからない。そういうのがいっぱいある。

 

でも表の報道や論説ではそういう疑念は一切出てくることはない。プーチンは今でも、昔のプーチンのままだという前提で話が進められる。あれは別人だよ、という話をしたい人は裏でやるしかない。そういうことになっているようだ。

 

でも大事なことだろう。そういうことをしていると、表の議論では本質的な議論ができないことになりはしないか。習近平も2台目もとい二代目になったから政策が少しは変わるのではないか、みたいな解説は必要ではないか。

 

自分は、何枚もの写真を見てきたけれども、明らかにこの人は入れ替わっているだろう、というのはあると思っている。

 

なんでこんなことをするのか。仮にバイデンと岸田さんが退団したとして、仮にお互い偽物だとしたら誰と誰が会談しているのか。お互いそれを知っているのか。そもそも、選挙で選ばれた本人が出てこないと法律違反ではないのか。なぜそれをみんな指摘しない。なぜみんなそれを許容しているのか。そういう間違った前提をもとに組み立てられる議論は信用に値するのか。

 

結論から言うと、これは小さな問題なのだろう。世界を動かす、国を動かすというメカニズムの中では、おそらく「本人」などと言う概念はどうでも良いのだ。舞台の中心にいるのは菊五郎である。それが五代目だろうが六代目だろうが、それが歌舞伎というものである、というのに近い。違うのは、周りがそれを本人だと信じることによって成り立つ世界が必要だという点だけだ。

 

そういう意味で言うと、バイデンやトランプが個人として世界を動かすことはない。彼らは、その屋号を預かっている集合的な意思を表明するシンボルに過ぎないのだが、その集合的な意思こそが世界を動かしているのである。そこを理解した上で、あえて本物偽物にこだわらず立論することは、驚くべきことだが実は可能だし有効だと言うことだ。

 

ただ、そのアイコンが社会t系生命をたたれると、その集合的な意志も勢力を失う。そう言う意味で、創価学会の名誉会長がまだ存命ということにも、江沢民がこの時点で亡くなったとされることにも、実は大きな意味があるけれどもそのことに直接触れてはいけないことになっている。なんというか、ある意味で大人の世界なんだろう。