以前の例との違い

もうこの件についてはしつこくなるので書きたくない気持ちもあるが記録のためもう1件だけ。

 

政治家が突如として亡くなった例は初めてではない。自分は大平さんと小渕さんの例を記憶している。他にも橋本さん、中川さん、そのほかいろいろあるが比べるべきは大平小渕かなと思う。

 

全く違います。もう騒然とした感じだった。自民党本部もごった返していたという。とんでもないことが起きた、というテンションの上げ具合がすごかった。それが、弔い選挙とかいろんな勢いに繋がったと思う。

 

今回は、各党党首のコメントをニュースで見ても、落ち着いていますよね。この違いは大きいと思う。メディアだけが大騒ぎしようとして、でもみんなついてこないみたいな。それが今回の特徴。各国の反応も、淡々と仕事をこなしている感じ。インド、中国、そしてアメリカのバイデン。なんの衝撃も受けていない感じ。淡々としすぎている。

 

民主主義の危機だ!とメディアはいうが、違う、そこじゃない。そもそも亡くなったあの人は民主主義的だったかという前提が共有されていない。

 

大きなシナリオだという説も決して馬鹿にはできない。シナリオを書いている人がいるとすればかなりアメリカ的だと感じる。日本人は、人が亡くなったらしばらくは静かにしているものだ。いろいろあるが、喪中には騒ぐのを一旦やめよう、という感覚。テロによって民主主義のシンボルが侵された、さあ反撃だ、というのは「リメンバー・アラモ」「リメンバー・パールハーバー」の感覚であって、それは日本生まれ、日本育ちの日本人の心情のあり方とはずいぶん違う。

 

この辺の感覚は恐らく外国人にはわからないだろう。

 

以前、ハワイ出身の藤猛さんがボクシングの世界王座を獲得して「大和魂」と言ったときに多くのファンはのけぞった。なんだそれ、という感覚。同じくハワイ出身のエンセン井上選手が格闘技の試合でTシャツを脱いだら「大和魂」という入れ墨があってこれまた何も知らないファンはのけぞった。李登輝さんがやたらと戦前の日本を美化する発言をしてなんとなく違和感も感じた。ありもしない日本のイメージに基づいて日本人かくあるべし、という論陣を張る人がいるけど、日本生まれ日本育ちの日本人には響かない。

 

そう考えると、大平さん小渕さんの時には、そういう日本人の感覚、琴線に触れる何事かがあったのかもしれない。今回は、自分の感覚でいうと、それはない。