自分が絶対に行けない世界線

どうも心の中には、本来のアレと繕うアレがあると感じる。

 

アレとは、考えの向かうところというか。

 

例えば本来のアレは怠け者だったとする。何事にも興味関心を示さず、ぼーっとしているのが好きという。でも繕うアレはそれを許さない。もっとちゃんとしろとか促す。自分という一人の人間なんだけれども、だから葛藤みたいなものが生じる。

 

最近つくづく思うんだけれども、繕うアレは弱い。違う世界線に導く力にはなかなかなり得ない。無理して繕ってもいい展開は無い。

 

本来のアレは強力だ。このままじゃいけない、頑張らなくちゃと言っても辛いとか成果が出ないとか思ったのと違う結果が出たりとか、繕うアレが次々と失敗を重ねる中、まあやってみな的な余裕で本来のアレがじっと佇んでいて、さあこんなところかなという場面でゆっくりお出ましになる。

 

繕うアレは教育の産物かもしれない。教育とは小中学校その他のことを言うのではなくて、社会的な押し付けね。これも強力なんだけれど、本来のアレには敵わないと思う。

 

自分もですね、社会的強制?に従ってあれこれ頑張ってみました。でも本来のアレが持ってるベクトルと違うんで、繕うアレが目指す世界線にはついに到達しないどころか状況はどんどん追い詰められていきました。例えば社会的地位ですね。出世したり、少し関係先が広がったり、面倒見る相手の若手が増えたりしたって楽しいことなんか何もなかった。大変になるばっかりなんだけど社会的にはそれが、なんというか、上昇しているように見えるんですね。

 

でも自分の本来のアレはそんな方向を向いていないので、辛いことばっかりになってくる。だから世界線も変わりきらない。

 

何が言いたいかというと、自分の世界線は本来のアレが大体決めてしまうところがあるのでは無いかと。

 

ちなみに人間全員が怠け者ということはもちろんなくて、センスというか感性というかここのところが大きいと思う。例えばトップが嬉々としてSDGsのバッチをつけていたりすると、ピピっと反応してやる気がなくなる(ダメな人に率いられている会社は多分ダメになる)人はそういうセンスを持っているわけで、それは誰かに教えられたというより本来のアレがそういう指向性を持っているんだろうと思う。ワクチンもそう。ここまできてまだ打つ人は本来のアレがそうなっているとしか思えない。

 

栗本慎一郎なら、繕うアレに従って色々身につけたものをパンツと呼ぶかもしれないな。マンデラエフェクトとか世界線移動とかはあると思うけど、それによって幸福になるためには自分自身の本来のアレの性格をよーく認識しておくことが大事じゃ無いかと考えた。