世の中は集合意識で動く、という見立ては正しいと思う。

 

ただこれが社会現象を超えて自然現象にも通用するメカニズムなのだ、と言う点は賛否分かれるかもしれない。

 

もうオカルトの領域に片足を突っ込む話になるのだが、たった150年前の江戸時代であれば大半の国民はそれを素直に受け止めだのではないかと自分は思っています。

 

雨乞いなんてのは典型的な例ですね。初詣で今年も穏やかに過ごせますようにと1億人が祈ればそれは実現すると昔の人は肌で感じていただろうなと思ってます。

 

個人に引き戻して、自分は病気になるんじゃないかといつも不安でいると、その不安で体調を崩して病気になることがあるでしょ。想念というものは実は恐ろしい。それが何千人、何万人に拡大したものを集合意識と呼ぶわけで。一つの国に拡大して考えればそのスケールは馬鹿でかい。

 

だから天皇家が必要とされたのではないかと思わないでもない。この人はお飾りで悪いことはしない。いつも全国民のことを考えているから安心しなさい、というメッセージ。

 

それが明治から変になりましたよね。日本人の集合意識が近代化や工業化に向かったり。立身出世に向かったり、拝金主義に向かったり、個人主義に向かったり。

 

非科学的と思われても仕方がないですけど、その時々の日本人、あるいは世界の人々が何を共通に考えたり求めたりしているかで世界が決まると仮定してみたいです。決して、それは悪い方向にはいかないはずで。

 

それができないのは、憎しみとか混乱とか恐怖とかの要素が常に注入されてきたからだ、というのが仮説。そうすると集合意識がまとまりにくくなる。

 

環境保護NPOの中にはとても攻撃的な人々がいたりする。そういうところをよく見て、避けて通って正しいと思われることに専念する。この辺が非常に今大事かなと。