かのように

鴎外の小説で最も印象深かったものの一つ「かのように」。

 

これは日本論だと思うよ。今も全く変わらない。

 

岸田首相は外遊中、ノーマスクで世界の要人と至近距離で会話していた。その映像は日本国内隅々まで流通している。ところが帰国の際、開けられた飛行機のドアから現れた岸田はマスク姿、しかもタラップを急ぎ降りる姿はまるで小走りのようであり、当然ながら周囲に人はいない。もちろん、その後の国内撮影の映像ではマスクを外しているものはない。

 

このこと(岸田がマスクを国内と海外で使い分け、それはおかしいではないかとメディアも国民も誰も指摘しないこと)が意味するのは、要するにマスクに感染防止効果があるかないかが問題ではない、マスクをしなさいと決められているところではマスクをして、マスクしなくてもいいよとされている場所ではしなくてもいい、その決まりを守っているかどうかが問題だ、という日本人独自?の共通的価値観が明瞭に表れているということだろう。

 

そう。決まりを守っているかどうかだけが問われている。

 

内心には立ち入らない。マスクの効果を信じていますか?と問うことは無粋なのである。

 

明治の近代化はおそらく多くの日本人にとって精神的に苦痛だったのだろう。その先頭に立った鴎外にとっても、大きな苦痛であったと自分は推測する。その苦痛に対して、日本人は、従うふりをするという態度で乗り切ろうとした。外面はとにかく従う。だが、内面には立ち入らせない。それが明治の和魂洋才の正体ではないか。それを表すタイトルが「かのように」。

 

しかし本心と違う振る舞いを続けていると、何が本心だったかわからなくなることもある。

 

明治の日本人は、社会の表面では諸制度や技術を西欧から取り入れながら、裏に回れば毛唐とか悪様に言っていた。馬鹿にしていたのである。精神性が低いから。それが和魂洋才の実際の姿。

 

令和の日本人は欧米でもやってるから、政府も推奨するから、WHOも勧めてるから、という理由でコロナは危険、外出はしない、マスク装着、とここまで従った。(そこから先が問題。ワクチンはダメでしょ。それはもう「かのように」ではなくて誤判断だよ。ただし感覚としては、)コロナが危険な病気である「かのように」振る舞うことが外面状は必要だ、という認識で皆さんが動いていることだけは間違いない。

 

大国の動向に左右される可哀想な小国の国民のひ弱な姿、と言えないこともない。