ボストロムやマスクが考えているのは、多分、知的生命体を含む仮想世界を作ると、その中にいる知的生命体は自ら下位次元の仮想世界を作り出すまで発達する、世界はそんなフラクタルな構造だというものだ。

 

我々の世界において、ゲームの中のキャラクターが操作者たる人間の世界に飛び出してくることが決してないように、我々が我々の世界を操作している上位次元の世界に「次元上昇」することはおそらくあり得ない。そういう意味で、アセンション仮にあるとしても次元上昇という捉え方は適切ではないのではないかと考える。

 

そういう構図の中で、今起きていることを考えると、思いつくのは次のようなことである。

 

人間社会は仮想世界を自ら作りうる技術ベクトルを獲得し、いずれ着手するだろう。その時に、どのようなコンセプトで次の仮想世界を下位に作るのかは我々の上位世界で我々をキャラクターとして用いてゲーム?を操作している存在にとっても重大な関心事であると考えられないだろうか。

 

次のフラクタル世界をどう設計するかである。

 

それは、誰が、つまりどのような価値観を持った人間がその設計に関わるかに依存する。

 

適切な価値観を育成するためには、現実社会が実はどのようなものであったのか、この世界がどのように設計され動かされてきたのかを一旦、プレイヤーたちに見せる必要がある。

 

そういうタイミングに今はきているということではないだろうか。

 

その結果、我々の世界は滅びるかもしれないし、延命するかもしれない。延命するとしたら、この世界は究極的には「よく」設計されていたということになる。滅びるとしたら、このゲームは出来が悪かったということだ。次の、下位のフラクタルを作る権利を我々は得られないという結末になる。過去文明は、こうして滅びていったのではなかろうか。